会津における能楽の歴史


1.揺藍期

 能楽は、室町時代に大成された舞台芸能である。会津においても、武士階級において中央の影響を受けて、歴代藩公中心に各流派の能が行われていた。

2.開花・隆盛期・・・徳川幕藩時代(1643−1868) 

 二代藩主保科正経公の代となるや、江戸時代の格式ある能舞台を見習ってか、延宝五年(1677)に鶴ケ城本丸の改築に際し、三の丸に能舞台を完成させた(家政実記)。この時点をもって「会津の能元年」と考えてよい。いまから(2002年)数えて325年前のことである。やがて演能に際して、町方が城内に招かれ観能の機会を与えられ、町方も士族方とともに次第に能楽の隆盛に係わるようになった。
 藩内では、城内能舞台における正月「謡初め」の儀式や折りある毎に三代目藩公正容が自ら舞台に立った記録が残されている(家政実記)。

 また、第八代藩主松平容敬時代の天保元年には、城内稲荷袖社において「神事能」が奉納され、多数の町民が番組に名を連ねている(此花酒造博物館 河野家所蔵)。真龍寺(河井家所蔵)の記録なども合わせ見ると、幕末の頃、すでに会津においては武士・町民の共同によって演能が行われていた。シテは武士、狂言・ワキは町方という結合が多かったようである。

 このように、近世前期に幕府の式楽として確立した能楽は庶民とは縁遠いものであったが、後期になると町方も舞台に立つようになった。ただ、舞台上の動きや囃しにあまりとらわれず文学や劇的雰囲気を味わい、場所も取らず、数人で楽しめる謡曲は比較的早くから庶民に広がっていたようだ。宝生流は寛政11年(1799)に210番の謡本を刊行したが、謡本の刊行がその速度を速めた。


 会津では観世流中心に諸流派が隆盛を競っていたが、幕末になるに従い、爆発的に宝生流に移行して行く。狂言では鷺流が発展を遂げた。
 以上のことから、保科時代に始まり松平時代に至っては、能」、「謡曲」が藩公をはじめ武士階級さらには町方まで広がり、この時を会津における「能」の絢爛たる開花期・隆盛期であったということができる。

3.明治以降

 戊辰の役(会津が敗戦)により、武士階級は斗南藩(青森県ー下北半島)へと移住し、
会津鶴ガ城は「城郭破却令(明治7年までに壊す)」により、天守閣はじめその他の建造物は破却され、したがて能舞台も姿を消してしまった。この大変革にもめげず、明治11年には「和楽講」が組織され、市民参加の能楽発展の基盤が芽生えた。 これらの背景には、会津から去らなかった武士、小田磯之助(1820〜1904)や江戸から会津に定住した職分の宝生流能楽師桐谷鉞治郎や囃方(笛)の長命新蔵の指導のもとで、庶民の問に能楽が広まりつつあったことであろう。

 小田の門人は当時数百人を数えたという。さらに、昭和17年まで長生きした野出蕉雨(1847〜1942)の存在は大きい。彼は会津能楽の中興の祖ともいわれ、地方色のあった「会津宝生」を長命新蔵師らとともに家元に直結し、正調にもどした。野出は画人でもあり蕉雨は号、名は善次、通称平八という。戊辰の役では戦い、戦後は生田虎之助に師事し宝生流謡曲を習い、長命新蔵師らと共に会津宝生の発展に功績があった。亦、個人財産である能装束や能面を寄付するなどして、現在の会津能楽会の基礎を築いた人である。

 第二次世界大戦中は兵役、勤労動員等国策遂行のため、目立った能楽の発展は見られないが、地場産業の漆器、酒造等の産業毎、或いは職揚毎や村落毎に謡や仕舞の稽古がなされていたようである。戦後は極端な人員不足、物資不足で稽古も思うように至らなかったが、その経済・文化混乱の中で昭和24年1月、会津宝生能楽会が設立され、会則を定め、春・秋2回の演能及び孫弟子会の開催を決定している(会津能楽会の概要と一部重複)。その後、春・秋の演能は定期的に開催され、神社では薪能も行なわれ、請われて他市町村で演能を開催したこともある。

昭和30年に孫弟子会は[和楽会]と改称され、幹事数名が運営にあたっている。

昭和34年にはそれまであった「会津宝生能楽会」に観世流愛好者が加わり、名称も「会津能楽会」と改称した。

昭和61年には第1回会津鶴ヶ城新能が本丸御殿跡の特設舞台で行われ、大勢の観光客を楽しませた。

 現在、薪能を含めて年3回定期的に演能会があり、会津能楽会は会員の演能向上カの修練の場になっている。一方、「能」を支える能楽囃子の研修の場として、「会津能楽囃子会」を組織し囃子および囃子謡の技術向上を図っている。平成15には、発足15周年を記念して中央より6名の職分を招聘し研鑚した。

 これらの活動は地域文化・伝統文化の向土発展であり、我々の楽しみでもある。 

●参考資料 

会津能楽会発行「会津の演能」の「会津における能楽の歴史」