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また、第八代藩主松平容敬時代の天保元年には、城内稲荷袖社において「神事能」が奉納され、多数の町民が番組に名を連ねている(此花酒造博物館 河野家所蔵)。真龍寺(河井家所蔵)の記録なども合わせ見ると、幕末の頃、すでに会津においては武士・町民の共同によって演能が行われていた。シテは武士、狂言・ワキは町方という結合が多かったようである。 このように、近世前期に幕府の式楽として確立した能楽は庶民とは縁遠いものであったが、後期になると町方も舞台に立つようになった。ただ、舞台上の動きや囃しにあまりとらわれず文学や劇的雰囲気を味わい、場所も取らず、数人で楽しめる謡曲は比較的早くから庶民に広がっていたようだ。宝生流は寛政11年(1799)に210番の謡本を刊行したが、謡本の刊行がその速度を速めた。
小田の門人は当時数百人を数えたという。さらに、昭和17年まで長生きした野出蕉雨(1847〜1942)の存在は大きい。彼は会津能楽の中興の祖ともいわれ、地方色のあった「会津宝生」を長命新蔵師らとともに家元に直結し、正調にもどした。野出は画人でもあり蕉雨は号、名は善次、通称平八という。戊辰の役では戦い、戦後は生田虎之助に師事し宝生流謡曲を習い、長命新蔵師らと共に会津宝生の発展に功績があった。亦、個人財産である能装束や能面を寄付するなどして、現在の会津能楽会の基礎を築いた人である。 第二次世界大戦中は兵役、勤労動員等国策遂行のため、目立った能楽の発展は見られないが、地場産業の漆器、酒造等の産業毎、或いは職揚毎や村落毎に謡や仕舞の稽古がなされていたようである。戦後は極端な人員不足、物資不足で稽古も思うように至らなかったが、その経済・文化混乱の中で昭和24年1月、会津宝生能楽会が設立され、会則を定め、春・秋2回の演能及び孫弟子会の開催を決定している(会津能楽会の概要と一部重複)。その後、春・秋の演能は定期的に開催され、神社では薪能も行なわれ、請われて他市町村で演能を開催したこともある。 昭和30年に孫弟子会は[和楽会]と改称され、幹事数名が運営にあたっている。 昭和34年にはそれまであった「会津宝生能楽会」に観世流愛好者が加わり、名称も「会津能楽会」と改称した。 昭和61年には第1回会津鶴ヶ城新能が本丸御殿跡の特設舞台で行われ、大勢の観光客を楽しませた。 現在、薪能を含めて年3回定期的に演能会があり、会津能楽会は会員の演能向上カの修練の場になっている。一方、「能」を支える能楽囃子の研修の場として、「会津能楽囃子会」を組織し囃子および囃子謡の技術向上を図っている。平成15には、発足15周年を記念して中央より6名の職分を招聘し研鑚した。 これらの活動は地域文化・伝統文化の向土発展であり、我々の楽しみでもある。 ●参考資料 会津能楽会発行「会津の演能」の「会津における能楽の歴史」 |