令和5年の活動計画
会津能楽囃子会 3月12日(日)萬花楼
①春の演能会 5月 28日 (日) 能ー西王母
②薪能(会津秋祭り協賛行事)9月23日(例年、彼岸の中日)ー能ー
③秋の演能会(芸術祭参加行事)10月 日(土)能ー今年より取りやめ
④和楽会(孫弟子会)4月 日 会津能楽堂
能教室-昨年は20回実施している。 市内小学校その他への出前講座。
令和4年の活動は次の通り
春の演能会 5月 29日 (土) 能ー田村 済
②薪能(会津秋祭り協賛行事)9月23日(例年、彼岸の中日)ー能ー羽衣-
③秋の演能会(芸術祭参加行事)10月26日(土)ー能ー東北 ホームページは只今工事中
④会津能楽囃子会 3月 12 日
⑤和楽会(孫弟子会)4月 日 会津能楽堂 中止
戊辰の役(会津が敗戦)により、武士階級(能楽愛好者)は斗南藩(青森県ー下北半島)へと移住した。この大変革にもめげず、武家以外の能楽愛好者によって、能装束・能面の保存、新規購入,演能技術の研鑚・向上を目指して、明治11年に「和楽講」が組織され、市民参加の能楽発展の基盤が芽生え、現在まで下記のように脈々と続いている。
参考までに、東京では、3年おくれた明治14年に旧大名家の発起人によって能楽社という組織が作られ、その後、徐々に能楽は復活したことを考えるに能楽復興の先駆けとなった歴史がある。
戦後はその経済・文化混乱の中で昭和24年1月、会津宝生能楽会が設立され、春・秋の演能は定期的に開催され、神社では薪能も行なわれていた。
昭和30年に孫弟子会は[和楽会]と改称され、昭和34年にはそれまであった「会津宝生能楽会」に観世流愛好者が加わり、名称を「会津能楽会」とした。
昭和61年には第1回会津鶴ヶ城新能が本丸御殿跡の特設舞台で行われ、大勢の観光客を楽しませ、以後毎年行われていた。
平成14年から26年までの記録(旧ホームページ) のうち薪能は平成20年までは鶴ヶ城本丸跡の特設舞台で行われました。
平成14年以前は、ホームページがありませんでした。
⑥能装束・面・小道具・作り物の保存・補修と新規購入
⑦虫干し(photo↓) 7月9日
⑧広報活動(隔年会報発行)
⑨能楽教室(小学生、一般人)年間20数回、会津若松市、会津坂下町、郡山市
会員は各グループごと能楽師を招き研修しており、能楽全般について技能の向上に努めている。
このように、地方の市民団体である本会は貴重な能面・装束・道具類などの財産を所有し、能を演じ、地域における能楽文化の興隆・発展に寄与している。これは全国的にも珍しい存在です。悩みは会員数の減少と高齢化です。
令和5年2月11日(総会開催の定例日) 懇親会は中止
午後10時より 会津若松市 文化センター
会員54 名 出席3名 委任状20 名 総会成立
事業報告、予算,決算。役員改選があり下記のように決定
■理事の役割分担と組織 (役員改選)
顧問 折笠成美
会長 湯田真佐弘 平山 昇 上野正義〈兼 事務局長)
庶務 渋川兼三 会計 栗城幸子 坂内庄一
佐藤ヨシカ 一条正夫 角田久美子 堀 篤子 佐藤 仁
監事 河合正弘 浜崎幸子
演能企画委員会(11名) ○ 折笠成美 佐藤ヨシカ 平山 昇 上野正義 一条正夫 栗城幸子 角田久美子
坂内庄一 堀 篤子 渋川兼三 佐藤 仁
財産管理委員会(10名)○一条正夫 佐藤ヨシカ 折笠成美 上野正義 小野木和子 栗城幸子 角田久美子
坂内庄一 渋川兼三 堀 篤子
能装束着付部(12名) ○ 堀 篤子 小野木和子 佐藤ヨシカ 栗城幸子 渡部静子 渡辺ヒロ子
秋本征子 増井典子 山垣美枝子 松井恒子 村越」洋子 渋川兼三
広報委員会(11名) ○ 河合正弘 折笠成美 栗城幸子 鈴木圭介 角田久美子 小林 忠、
浜崎幸子 山垣美枝子 堀 篤子 渋川兼三
ホームページ委員会(4名) ○鈴木圭介 栗城幸子 船木真一 星 忠勝
会報編集委員会(5名)○佐藤 仁 鈴木圭介 上野正義 増井典子 角田久美子
育成委員会 13名 ○平山 昇 佐藤ヨシカ 一条正夫 栗城幸子 角田久美子 堀 篤子
山垣美枝子 上野正義 新井田 大 渋川兼三 佐藤 仁 松井恒子 増井典子
令和5年2月現在 会員54名が所属(宝生流 445 名、観世流 9名)
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